お疲れ様です。赤鬼です。
今回は今村夏子さんの『星の子』をご紹介します。
林ちひろは中学3年生。病弱だった娘を救いたい一心で、両親は「あやしい宗教」にのめり込み、その信仰が家族の形をゆがめていく。野間文芸新人賞を受賞し本屋大賞にもノミネートされた、芥川賞作家のもうひとつの代表作。
朝日新聞出版
あくまで私個人が読んだ感想です。
その感想も読み返したときに変わってしまう可能性もあります。
何卒ご容赦ください。
頭のタオル
純文学作品では、“狂った登場人物”を物語の中枢に据え置くことが間々あります。
平たくいえばそこから「価値観の相違」を発生させるわけです。
この作品の主人公は、両親があやしい宗教の信者であり、ある意味で特殊な家庭環境で育っています。
社会に対する価値観の相違が、物語の設定から生じています。
象徴的なのは、頭に濡れたタオルを乗せる行為。
作中で、宗教団体が推奨している民間療法というか、おまじないのようなものです。
多くの人にとっては馴染みのない行為でしょうし、想像するだけで滑稽な様子だと思うでしょう。
これによって物語が展開されたり、主人公の心境の変化につながったりします。
主人公は、家庭と社会で板挟みになっている状態ともいえます。
成長していくなかでその奇怪さは自覚しますが、両親だからこそ無碍にはできない。
大きな葛藤はあるものの、それでも主人公は周囲の人間を慈しみ、真っ直ぐ生きようとしている。
絶妙なバランス感覚で成り立っている物語だと思いました。
ラストシーンの解釈
地の文では、難しい言葉や聞きなれない言い回しはほとんどでてきません。
主人公がいわゆる“少女”であり、一人称で書かれている作品と考えれば、ある意味必然ともいえます。
ゆるめの文体ではありますが、凡庸な印象はなく、とても読みやすかったです。
とくに文章のリズムや醸しだす雰囲気が独特で、主人公の人となりが文体からにじみ出ているように感じました。
主人公は、純粋で、チャーミングで、明るくて、へこたれません。
地の文を読み進めるうちに、主人公に気持ちが寄り添い、彼女の幸せを願う気持ちも大きくなっていきます。
家族で流れ星を見つけようとするラストシーンでは、なかなかタイミングが合わず、見えたかどうかを確認する会話文がしばらく続きます。
さまざまな解釈ができる書き方ですが、家族の在りようとして幸せなかたちのひとつだと私は読みました。
たとえ家族であっても、同じときに同じものを見ているとは限らない。
どうしたって報われない儚さはあるが、それでも一緒にいる……といったような。
私はこのラストシーンが大好きです。
もっと不穏で恐ろしい方向にいく予感がしましたが、いい意味で裏切られました。
目を瞑って、静かに唸りたくなるような余韻があります。
私が求める、純文学的なラストシーンの理想形のひとつです。
家庭由来の価値観の相違
この作品が盛り込むトピックスとして目につきやすいのは、「宗教」と「家族」でしょう。
どちらかといえば私は、「家族」を大きな軸に据えたいと思いました。
お姉さんや親戚との関係性や、主人公の結婚に対する憧れを含め、血のつながりを大切にしているように思われる描写が点在しています。
物語が進むなかで、社会とのずれを感じさせる場面は多々あります。
明るくへこたれない主人公は、それでも両親のことを大切に思っています。
この報われなさというか、どうにもできないはがゆさは、読んでいて辛く感じてしまいます。
だからといって主人公がかわいそうだとか、不幸だとか、端的に裁いてはいけないと思いました。
なぜならそれは、家庭由来の価値観の相違によるものだからです。
たとえば目玉焼きに使う調味料は、家庭によって変わります。
宗教となれば特殊な状況として捉えがちですが、この相違はどこにでも起こり得ることです。
多かれ少なかれ、誰もが感じたことのあるものでしょう。
その相違が宗教由来だと解釈すれば、社会全体が取り組まなければならない問題になります。
とくに二世以降の信者さんが抱える苦難については、外部からのサポートがなければ解決は難しいでしょう。
一方で、問題の核には「家庭由来の価値観の相違」が含まれるため、部外者は安易に踏み込めなくなり、問題は複雑化します。
本当に難しい。
この点について問われている、とまでは断言できません。
しかし、入れ子構造のややこしさだったり、部外者としての立ち回りだったり、大切なことを考えさせられるきっかけにはなりました。
この小説があることによって、世界は少し良くなる気がすると思った赤鬼でした。
お疲れ様でした。
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