【沼田真佑】影裏

お疲れさまです。赤鬼です。

沼田真佑さんの『影裏』をご紹介します。

大きな崩壊を前に、目に映るものは何か。

北緯39度。会社の出向で移り住んだ岩手の地で、ただひとり心を許したのが、同僚の日浅だった。

ともに釣りをした日々に募る追憶と寂しさ。いつしか疎遠になった男のもう一つの顔に、「あの日」以後、触れることになるのだが……。

樹々と川の彩りの中に、崩壊の予兆と人知れぬ思いを繊細に描き出す。

文春文庫

あくまで私個人が読んだ感想です。

その感想も読み返したときに変わってしまう可能性もあります。

何卒ご容赦ください。


ていねいに読めばわかるような仕組み

物語の舞台となるのは岩手県です。

作中において、目立つトピックは3つありました。

「東日本大震災」「人間関係」「セクシャリティー」

大きなことから、身の回りのこと、そして自分自身のこと、これらがほとんど継ぎ目なく展開されています。


転勤によって岩手県に移住した主人公、という設定も効果的です。

震災を盛りこむ前提になるのはもちろん、自然豊かな土地の様子を細かく描写する根拠にも役立っています。

ある意味では観光客的な視点をもちながら、人や土地の様子を観察するようにして書かれています。

主人公に田舎差別的な視点はなく、むしろ受け容れようとする姿勢をもっていて、偏見に対する配慮が効いているとも思いました。


性的マイノリティーである主人公の内面は、読み進めるうちに発覚しますが、大々的に騒がれるような展開はありません。

その代わり、場面を通して透けて見えるような仕組みになっています。

じっくりていねいに読めばわかるような書き方がなされていて、構成上の軸としてはかなり強力です。

その意味で、セクシャリティーについては色濃くにじみ出ているともいえます。


派手な展開はないものの、作品に不穏な空気は通底しているように感じました。

終盤ではそれを象徴するような、“事件”と呼ぶべき出来事があります。

ラスト間近のとある場面を通じて『電光影裏に春風を斬る(電光影裏斬春風)』、禅の言葉が引用されています。

後述しますが、この禅語が物語に奥行きを生じさせています。



美しく、巧みで、秀逸な文章

言葉同士が、やわらかく密着しているような文体です。

目立っているのは描写で、人やモノや風景の描き方が美しい。

言葉の選び方や、つなぎ方も巧みです。

この書き方を批判する人はいないだろうと思えるような、秀逸な文章です。


地の文において、主人公の感情が不用意に表面化しないのも特徴のひとつです。

かといって心情の揺らぎがないわけではなく、私が前項で言及したとおり、感情の機微は場面の描写にゆだねています。

要するに、性的少数派である主人公の視点や、パーソナリティーに基づいた場面選択がなされているわけです。

これが情景描写か、と納得させられる、お手本のような書き方です。


淡々と言葉が紡がれるなかで、緻密に書き分けがなされている会話文にも注目しました。

登場人物の東北訛りを適度に盛り込みながら、主人公との明確な差別化をはかっていたり。

特定の発言において、あえてカギかっこを使わない部分を設けたり。

だからといってリーダビリティが損なわれることはなく、むしろ登場人物が生きていると感じさせる会話文です。


“文学的な表現”は、悪い意味で使われることが多いような気がします。

『影裏』の書き方は、“文学的な表現”のいやらしさを感じさせません。

きっとこの文章は、文学におけるひとつの正解に達しているのだと思います。

巧い文章を教えてほしいと頼まれたとき、私はこの作品をすすめます。




命の物語

初めて読んだときは、秀逸な文章に圧倒された一方で、なかなかつかみどころのない物語だとも思いました。

何度が読み返すうちに、これは命の物語ではないか、と感じるようになりました。

たとえば作中、「妹の結婚」や「魚の卵」など、新たな命を連想させる描写が散りばめられています。

ここに性的マイノリティーである主人公の、新たな命への羨望が表現されているのではないか、と私は読みました。


現代において、子どもを産まないという選択をする人は、もはや珍しくはありません。

何らかの事情によって、子どもを授かることができない人だって大勢います。

「子どもを望んでいるが、生物学的に妊娠できない」となれば、ある程度絞り込まれるのではないでしょうか。

物語のなかでは明るみにはされていませんが、性的マイノリティーの内面にある儚さにまで踏み込んだ作品だと私は読みました。


そこで効いてくるのが終盤の、一部がタイトルにも採用された『電光影裏に春風を斬る』という禅語です。

意訳すると「人生は儚いものだが、人生を悟った者の魂は滅びることがない」という内容です。

一歩間違えると、幅広く消費されてしまいそうな意味が示されています。

この作品を読んだあとでは、人生の儚さ、命の尊さ、魂の気高さなど、崇高な意味として浮きだってきます。


読めば読むほど、味わいが深くなっていく作品だと思いました。

つかみどころのない作品、というのが初めの感想でしたが、人によっては突き刺さる要素も随所に見受けられます。

文章だけでも価値があるのにもかかわらず、深みや奥行きも備えています。

良い小説に出会えたと思った赤鬼でした。

お疲れさまでした。

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